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 こだわりの旅・新疆ウィグル 
シルクロードの(ウルムチ〜トルファン〜ハミ〜敦煌へ


■ 中国・シルクロードの旅
 ・ウルムチ〜トルファン〜ハミ〜敦煌を訪ねて
 

烏魯木斉(ウルムチ)
烏魯木斉(ウルムチ)西安から約2000Km西方に位置し天山山脈東部の名峰ボグド=オラの北西麓にあるオアシス都市。ウルムチはジェンガルモンゴル語で、美しい牧場の意である。
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世紀唐朝がここに庭州輪台県を置いた時期を除き,長く遊牧諸勢力の根拠地であったが,ジュンガル王国を滅ぼした清朝が1763年(乾隆28年)ここに迪化城を築き,烏魯木斉都統を置いて以降中国領となった。
 1884年新彊省の成立に伴って省都となり,中華人民共和国成立後,その名は旧名のウルムチに復した。
現在,中国内地と新彊を結ぶ蘭新鉄道の終着点で,各種の工場が建ち,中国西北部の政治・経済・交通の中心としての地位をさらに強めている。市街地は西に北にひろがり,城壁はとり壊され,レンガづくりの建物がメインストリートにたち並んで,様相を一変させた。住民はウイグル族のほか漢族・回族が多い。多民族の人々が集まって居住しているウルムチは中国の西北国境地帯における重要な都市といえる。また、交通の要衝に位置し、ウルムチ空港は中国西北地区の交通の中心地であり、ウルムチはシルクロード観光の玄関都市のひとつといえる。
 
ウルムチの気候:ウルムチを含む新疆エリアは、気候・気温の変化が非常に激しい。昼夜の格差が激しく気温差が20℃ということが多い。また、空気も非常に乾燥している。十分な水分補給が必要である.

新疆時間:中国国内は単一で北京時間を採用しているが、ウルムチは北京から2400kmも離れているため、新疆時間、ウイグル時間などと呼ばれるローカルタイム(北京からマイナス2時間、日本時間からマイナス3時間)も併用されている。交通機関を利用する際には、どちらの時間で表示されているか確認が必要となる。
 遊牧諸勢力の根拠地であったが,ジュンガル王国を滅ぼした清朝が迪化城を築き,烏魯木斉都統を置いて以降中国領となった。
楼蘭美女のミイラ:新疆ウイグル自治区博物館の古屍陳列室ミイラ群は、ごく普通のガラスケースに収められたミイラ達を、30cmほどの至近距離で間近に観察することができる。男性、女性、子供など生前の姿を想像させるほど状態の良いものもある。エジプトの王族のミイラと違うのは、それがミイラとして葬られたのではないというところだ。
 当時の一般市民は衣服や装飾品をつけたまま土葬されていたといわれるが、楼蘭周辺があまりにも乾燥し気候が安定していたために、結果的にミイラとなり発見された。「楼蘭の美女」は静かに眠っている。
埋葬されたのが約4000年前で、彼女のDNAを調べると、ヨーロッパ人の血が70%くらい入っているアーリア系人種のようだ。目は窪み、皮膚が黒く変色しているが髪の毛や肌の質感を見る限り、つい最近埋められたかのように見える。彼女は鳥の羽根が一本飾ってある毛糸の帽子をかぶっている。洋服といい装飾品といい現代で身にまとっていてもおかしくないほどのものだ。あとはどのような美人だったかは想像してみるしかない。
『楼蘭美女』:1980年鉄板河遺跡にて出土 推定45歳 身長152cm(生前 157cm) 血液型O




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吐魯番トルファン
吐魯番 (トルファン)世界でも有数の低地であるトルファン盆地の中央部に位置し、天山の雪解け水によって開けたオアシス、トルファンは西域の真中を横断する天山南路と天山北路を連絡する要衡地として栄えた。
 西域へ進出しようとした漢民族はここを西域経営の拠点とし要塞を築き、遊牧民族との攻防が絶えなかった。しかしその結果、西域文化と漢文化とが交差する国際都市、トルファンの特色を位置づけることとなった。前漢時代に築かれた高昌国は、特に仏教の影響を強く受けた。630年代には玄奘三蔵が、インドへの旅の途中に2ヶ月間滞在し説法したことで知られる。
 現在でも鉄道の蘭新線と南疆線の分岐点となるなど、地理的な重要性は変っていない。トルファンの特産品のひとつに葡萄がある。トルファンの灼熱の太陽がはぐくんだ、みずみずしく甘い葡萄。天山山脈の雪解け水が春の訪れと共に解け、夏には大河川となり、渇いた大地に吸いこまれ、やがてはカレーズをつたい人々の生活の営みに欠かせない、潤いの水として行き渡る。


トルファンの気候
:高温で乾燥していて風が強く、年間降水量は20mmにも満たない。とくに7月中旬〜8月中旬までの1ヶ月は酷暑が続く。帽子とサングラスは夏の必需品。日向に立ちっぱなしでいると簡単に日射病になってしまうので、木陰に入って休憩すると良い。

イスラム文化:
新疆ウイグル自治区はイスラム教を崇拝する、もうひとつの中国であるともいえる。
街のところどころにあるモスクや、行き交う人々の頭の上にかぶられたイスラムの帽子ソンコ、そして人々の顔々を見ていると、中国の他の地方とは異なるイスラムの空気を感じることができる。また、市場へ行くと香辛料やシシカバブの露店、さまざまな形のナンやハミ瓜やスイカといったフルーツが溢れている風景を目にする。シルクロードのオアシスと言われたゆえんを今も尚感じることのできる街だ。


ベゼクリク千仏洞:
火焔山の横を流れるムルトウク河の断崖にその石窟寺院はある。高昌国と西州ウイグル族が栄えていた<SPAN lang="EN-US">6世紀から14世紀まで開かれていたこの千仏洞は、ウイグル語で『装飾された家』という意味。その名の通りウイグル族の祖先が描いた華やかな仏・菩薩もわずかながら残っている。かつてウイグル人は仏教を信仰していたが、イスラム教の侵入に遭い、トルファンにイスラム教が浸透するとともに人為的に破壊されていった。それを免れた作品も、清の時代の末末期にここを訪れた外国人探検隊によって削ぎ取られ、痛々しい傷跡がいたる所に見られる。
修復作業中のため、60前後ある石窟のうち、現在見学可能なものはほんのわずかである


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哈密(ハミ)
哈密(ハミ新疆東部の中心地で、人口は33万人弱。かつて、この地一帯はハミ王が治めていた。ハミ王国は、清朝時代のウイグル族の地方政権で、9代223年にわたりハミを統治した。
ハミの中心部は数キロ四方の範囲に集まっていて、歩いて簡単に町を見てまわることができる。中心部から南方に向かって歩き、町の南半分のウイグル人居住区を抜けると、ハミ王墓にたどり着ける。
ハミという名称の由来には3つの説があるが、古代ウイグル語の「Khami(大きな門)」を語源とする説が有力である。中央アジアへ続く天山北路のゲートとして繁栄したこの街にふさわしい名前と言える


ハミの気候内陸性気候のため朝夕は6月〜8月でも涼しい。しかし、一日の温度差が20℃を越えることもある。
9月からは朝夕でも更に気温が下がるので、薄手の長袖が必要となる。

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敦 煌
敦煌
 甘粛省の西端、蘭州から北西へ約1000kmに位置する。
 紀元前2世紀、西域に進出しようとした漢民族は、この地に軍事上の拠点を置いたが、漢族王朝の政権の力が及ばなくなると、西夏、吐蕃などの異民族に占拠されるなど、興亡の歴史を何度も経験している。
 しかしながら、シルクロード西域北路と西域南路の分岐点であり合流点でありつづけ、シルクロードを経てインドから伝わった仏教文化が敦煌に集約された。
 軍事基地としての役割は次第に薄れ、覇権争いの変遷からも遠ざかり、仏教都市として盛んになっていった。
『砂漠の大画廊』と形容される莫高窟は、仏教文化の集大成であり、4世紀ごろから始まり約1000年に渡って作られつづけた石窟からは、想像を超えた時の流れと人の力を感じることができる。

 現在の敦煌の街は清代にできたもので、古代の敦煌とは違う場所にある。街はロータリーを中心にして東西に分かれる。東側の陽関東路は自由市場などが集まり、夜になると裸電球を灯した露店のみやげもの屋が連なる通りもある。陽関西路にはホテルなど宿泊施設が多い
 ラクダに乗って敦煌の南約5kmのところに、広大な砂の嶺がある。20kmに連なる鳴沙山は、砂礫が堆積してできた砂山で、強風に舞う砂の音が管絃や太鼓のように響くことからこの名がついた。砂漠地帯は昼夜の温度差が激しく、日中は砂がとても熱い。しかし、夕陽のなか金色に輝く鳴沙山はことさら美しく、シルクロードといえばラクダに乗って月の砂漠を進む隊商というイメージを抱く人が多いかもしれないが、それに一番近い風景を体験できる場所といえるだろう。

莫高窟を鑑賞する5世紀から15世紀までのおよそ1000年間に渡って、莫高窟は絶え間なく宗教的芸術を花開かせて来た。唐代の碑文にかかれた336年、楽尊という名の修行僧が旅の途中にこの地で岩壁が黄金色に光り輝いているのを見たことに始まる。
 光の中に荘厳な仏の世界を見た彼は自らここに一窟を築き、修行の場とした、それが莫高窟のはじまりとされている。作られた石窟は確認されているだけでも492を数え、現存する最古のものは第268272275窟の北涼窟(5世紀初頭)で、第237248251254257259260263窟などの北魏窟(500年前後)第249285355432窟などの西魏窟(6世紀前半)がこれに続く。
 その後、約1000年にわたり石窟の造営や修復が続き現状では、その様式から判断して五胡十六国9、北魏23、西魏2、隋97、唐225、五代34、宋70、西夏25、元7、に時代分けされる。
内部は石質が粗い礫岩であるため、四壁と天井を漆喰で塗り、その上全体に壁面を描き塑造の仏像を安置している。仏像類は2415尊にのぼり、例外的な石彫を除き鮮明な彩色が施されている。
莫高窟の写真で良くみかける「九層楼」は96窟。シルクロードバスでは、特別窟は57窟と217窟を参観する。
 《第96窟》莫高窟のシンボル 『九層楼』 楼閣は新しく1920年代に復元されたもの。中には高さ34.5m、幅12.5mの弥勒大仏(通称・北大仏)が安置されている。これは莫高窟で最も大きく中国全体でも5番目に大きいこの仏像は、日本の白鳳時代に当たる696年、初唐時代に造られた。山を削り泥をかぶせて彩色したもの。傷みが激しく、過去の修復の跡がはっきりと見える。真っ白な顔に紅をさした顔はいささか違和感を感じるかもしれないが、それでも全体としては唐代の原像の面目は残しているといえる。
 《第1617窟》敦煌学の発祥 『蔵経堂』南区の北の端にある、天井の高い方が第16窟で、入り口付近にある方が第17窟である。代表的な造りであった第16窟の入り口付近に20世紀になってから新たな窟が発見された。またその中には大量の経典や文章があり、これが世界に知られるようになって、莫高窟は再び見直させることとなった。書物の研究は現在も進んでいるが、なぜこの窟の中に経典などが収められていたのかは、わかっていない。130窟》千年の結晶 『南大仏』地下への階段を進んで行くと、巨大な吹き抜けのある窟にたどり着く。莫高窟のもうひとつの弥勒大仏がある第130窟は、唐の時代から一部の回収を受けているものの、その当時の姿を留め現世に悠久の祈りを伝えている。高さ29m、顔の大きさ7m、約20年の歳月をかけてつくられた。体に比べ、頭が大きくつくられていて、下からの見上げる視点を考慮した人為的な計算によるものである。
 《第148窟》仏陀の最後 『涅槃窟』入り口から少し歩くと、目の前に釈迦が涅槃に至る所が描かれている窟。たくさんの弟子達・天人・各国王子・菩薩・羅漢などが悲しんでいる様子が展開されている。また、ここは包まれた空間になっており、まるで巨大な棺桶の中で釈迦の涅槃の様子を見学することができる。

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